はじめまして!はなびらたけの応援団長 よっちゃんです!
ご挨拶
「きのこや松下」のお母さん 松下淑子(まつしたよしこ)です。
日本一元気なきのこやさんを目指して、日々奮闘しています。
なぜ日本一元気なきのこ屋さんを目指してるか…の経緯をお話させていただきたいと思います。
明るくて元気!がとりえの子ども時代
私、松下淑子は昭和44年群馬県藤岡市で4人姉弟の2番目として生まれました。
姉・弟・妹と毎日ケンカ三昧の子供時代を過ごしていました。
子供の頃から、「取り柄はなに?」と聞かれましたら「淑子ちゃんは明るくて元気がいいわね〜」と言われたことでしょうか。
小中高と通知表の欄には、「明朗活発」という文字が必ずと言っていいぐらい書かれていたことを思い出します。
「淑子」という名前からは想像できない正反対なる子供時代、青春時代だったのではないでしょうか。
淑女の淑とは…やはり名前負けです(笑)
ソフトボールと恩師との出会い
中学生なった時、ソフトボールに出会い白球を追う楽しさに目覚め、1年中真っ黒に日焼けして思うように上手にならないことが、より自分がソフトボールに夢中になるきっかけとなりました。
高校時代も迷うことなく、ソフトボールを続けていく選択をしまして、そこで私の人生に大きな影響を与えてくれた恩師に出会います。
女子ばかり1000人ぐらいのマンモス女子高で、厳しいながらものびのびと部活動一色ですごした3年間です。
2年に一度しかない文化祭では、全校生徒投票の選手権があり、栄えある「元気がいいで賞」を2度も受賞させていただき、グランドチャンピオンになりました。
その時、「あれ? 私って毎日格別に楽しんでいる訳でもなく、意図して元気いっぱいに振舞っている訳でもないし、落ち込むことだってあるのになんてお気楽に思われちゃってるの?
やんなっちゃう」とすごくありがたく思った訳ではなかったように思います。
3年間部活動一色の私たちに成果が現れたのは高校3年生の夏です。
全国大会出場。その会場が北海道です。
飛行機にも乗ったことがない私たちにとっては浮かれまくって参加することに意義があるくらいの気持ちで臨みました。
対戦するチームはみんな強豪揃いの伝統校ばかりです。私立の名門ばかりです。
力の抜け具合が良かったのか、運良くあれよあれよという間にベスト8まで勝ち進んでいきました。
誰も予想していなかった結果です。
やはりその後は、そう簡単には勝たせてはくれませんでした。
日本のトップレベルの選手を目の当たりにしてもっともっとたかい技術を身に付けたい!
もっと勝ちたい!という欲が沸き起こり、高校卒業後の選択進路はソフトボールのある実業団に入り、仕事とソフトボールの二足のわらじを履くという決意をしました。
私なりの大きな決断でした。
一人暮らしと怪我・・・不安と寂しさへ・・
いつも賑やかな姉弟に囲まれて、穏やかなのんびりした母が4人の子供たちを包み込みような優しさで支えてくれていた環境からの一人暮らしです。
会社の寮という場ではありますが、新たらしい生活への希望と期待感というより、寂しさと不安しかなかったスタートでした。
自信と自尊心が強い!!なんて自分のことをかなり強気に思っていた18歳の女子は完全に居なくなっていました。
困ったことに期待して入部した実業団ソフトボール部の商売道具と言っても過言ではない右肩が動かない。
日常生活を送るにも困ってしまう有様です。
私の求められていたポジションはキャッチャーです。
「え〜どうしちゃったの?」4番でキャッチャーという私の中のシナリオは音を立てて崩れました。
お山の大将的な私は、入社してすぐぐらいからリハビリ・治療の毎日となりました。
「なんのためにここまで来て、こんなことをしているのかしら?」
の繰り返しで、ふつふつとした憂鬱な毎日を過ごすことになりました。
「どうして私だけ?何がいけなかったの?役に立たない」
「チームに貢献できない」
ということばかりが頭の中をぐるぐる回っていました。
そんな状態ですから、試合で活躍するどころか、ベンチでの応援団です。
思い通りにいっていない苛立ち、悔しさばかりが日に日に募っていきました。
実業団の辛いところは、そんな状況下でも毎日仕事場に通わなければならないし、土日や大型連休にはリーグ戦、大会と休む間も無く遠征です。
朝8時の出社、夕方5時に仕事が終わり、その後練習…と自室に戻りホッとできるとなると、深夜になっているというという毎日です。
会社の看板を背負っている選手
そんな中でも選手は会社の看板を背負っている。
それにふさわしい振る舞い、スポーツマンらしくと厳しく教育されました。
随分と堅苦しいなぁと思っていましたが、当然のことです。
会社のお金で運営されているチームですから、社員の皆様にも応援してもらえる選手になることが勝負に勝つことと同時に求められている使命でした。
私は職場の元気印を目指して、同じ課の方々から「いつも元気ね、頑張ってるね」を励みに、そのように見えるよう必死で振舞っていた毎日でした。
そんな二足のわらじを履きながら自分の怪我は思うように回復してはいきません。
焦っても焦ってもよくなっていかないのです。
今考えると体のケアーメンテナンスなんてことは考えたこともなく、自分勝手に無茶しながら体と対話をせず、使いすぎが産んだ怪我だったのです。
負け犬じゃない、普通の女の子に戻ろう
健康で動けることが当然のように疑うこともありませんでした。
自分の身に降りかかって見て初めて健康であることの幸せ、感謝を感じました。
体からは痛みという形で大切に扱ってください。
ケアーしてくださいというメッセージが送り続けられていたのでしょう。
実業団での生活3年目に差し掛かる頃、自分の中で思うようにプレイ出来ないもどかしさを他人に向け、嫉妬、妬み、僻みと人として一番醜い感情が自分を支配するのか!!
と絶望するほどにイヤな自分を知ることになりました。
「今しかない」引退するという決断を下した時は、「負け犬だな〜」と心の中で叫びました。
しかし、同時にもう誰かと比べて勝ち負け、優越感をつけて劣等感を感じる私とさよならしようと決めました。
ずっと続けていた負けず嫌いなスポ根女子改め、普通の女の子に戻ることを目標としました(笑)
スポーツを楽しむ女子から、結婚、子育ての時代へ・・・
次の職場はスポーツクラブです。
スポーツクラブに勤めていた時代は、可能な限りスポーツを楽しんでみようとスキューバダイビングの資格を取得してダイビングの楽しさ、自然の素晴らしさを海から教えてもらい、冬はウィンタースポーツ、スキーにハマり、楽しむこと、遊ぶことを真剣に取り組んだ時代でした。
そんな時代も長くは続かず、何事も夢中でチャレンジしたら、こんなものかと一気に熱も冷め、情熱の炎も小さくなりました。
こんな私も月並みに恋をして結婚。
仕事も楽しくやりがいもありましたが、生涯かけてスポーツクラブで働こう!!
という考えもなく、結婚と同時に仕事を辞め、寿退社という形で仕事に区切りをつけました。
程なくして、妊娠、出産と育児に振り回されながらの涙あり、笑いありの子育て期間を経て、1人目女の子・2人目男の子・3人目男の子・4人目男の子と
一女三男の4人の子供の母となって現在に至ります。
心細くなりながら、泣いてばかりの新米母さんは、今では図々しい程の「肝っ玉母さん」になってしまいました。
子どもを預けて稼業のきのこやを手伝う
4人目出産後、私の生活は一変しました。
きのこやさんに嫁いでいた私は主人から家の仕事を手伝って欲しいとお願いされました。
主人もどうにか今の仕事の規模を大きくして経済的にも豊かさを手に入れたいと考えていた矢先だったのでしょう。
結婚してから子育て中心のほぼ専業主婦の私でした。
一番下の子は0歳児保育にお願いしました。
断乳もしていませんでした。
毎日上のこと2人育児日誌、おしめ、大量の着替えを持ち、大泣きする2人を保育園に送る朝は、心の中で「ごめんね」と申し訳ない気持ちでした。
家中が新しい生活環境に振り回され、台風の中に居るとき、長女が小学6年生 卒業を控えている3学期。
元気がなくなり、ふさぎ込む表情をすることが多くなり、
「お腹が痛い」「気持ち悪い」と体調不良を訴えることが多くなりました。
「少し疲れているのかな〜」と軽く考えていました。
でも、どうしても休みがちになったり、保健室にお世話になる機会が圧倒的に増えました。
長女のギブアップ宣言
流石に心配になりました。
心配は的中しました。
そんな中、中学入学をしてほどんかうして娘からのギブアップ宣言です。
「学校に行けない」「行きたくない」のではなく、娘は学校に行けないのです。
「えっ〜不登校なの?どうしちゃったの?何が起きたの?」と私の頭の中は疑問符でいっぱいになりました。
娘はほぼ3年間、元気に登校するという姿は見られませんでした。
母としてここで考えてしまったのは、私の育て方が悪かったのかしら。
厳しすぎたの?と自分を責めることに必死になりました。
私自身も娘の中学時代の3年間は常に原因、原因を探っていました。
そんな中、主人が「誰のせいでもないよ ○○は大丈夫」
と私を責めるわけでもなく、ありのままの娘を認めることを勧めてくれたことで、どれだけ気持ちが軽くなったことかと感謝しています。
そんな中で、母の体に異変が・・・
完全に私自身仕事とプライベートのことでパニックになっている最中、母の体に異変が起こりました。
「肺がんです」「即手術をしてください」との医師からの言葉でした。
私達姉弟は、「お母さんがどうして?」と頭が真っ白になり、絶望しました。
実は父を肝臓ガンで亡くしているからです。
医師から言われるままに治療にあたり勧められるままの投薬治療と薬漬け、チューブだらけの最期となってしまい、何も出来なかったという思いが、家族としての寂しさ、虚しさ、無力さを感じました。
最期に家族が泊まり込み、寄り添い、側で見守ることしかできませんでした。
陽気で愉快な人懐っこい、楽しいことが大好きな父が自分らしい最期を迎えることが出来なかったのが、大変悔やまれました。
そのような経緯があり、母が母らしくガンと向き合えるためには、何が必要で、大事なのか。
どんな選択をすべきなのか。
与えられた時間内での最善な方法を見つけださなければなりませんでした。
手術後、半年でガンの再発転移が見つかった際、母に効果的な抗がん剤はなく、医師には「延命でしかありませんが…」と新薬の抗がん剤を勧められました。
母の肺がん転移と私のはなびらたけ栽培においての人生の大きな転機が訪れた瞬間でした。
母の選んだ治療方法
母が選んだ治療法は薬を一切使わず、病気を治すクリニックです。
延命ではなく、生きるための選択をしました。
そこから生活全般がガラリと変わりました。
自然医学や、自然治療。
冷えやマクロビオティック、はなびらたけに関する本、免疫力に関わる本をたくさん読みました。まさに目からうろこで、病院だけが病気を治すところではないと、実感しました。
ガンについて学べば学ぶほど、「ガンは熱に弱い」と聞きます。
ならば、とにかく「温めればいい」と頭に浮かびますが、
病院の放射線治療や抗がん剤治療の「ガン三大療法」には身体を冷やす要素はあっても温める要素が入っていません。
体温が1度下がると免疫力が3割落ちます。
反対に体温が平熱より1度上がると免疫力は5倍アップします。
病気と闘うためには、免疫力は大きな鍵です。
母をどうにか助けたいという思いでたどり着いた自然療法でしたが、私が家族を守りながら、孤軍奮闘しながら育てているきのこ、
「はなびらたけがガン患者の方の希望の光になるかもしれない!!」
と確信しました。
はなびらたけがガンで闘病する方を元気にしてくれる
はなびらたけは、発がん性物質を抑制する成分がとても多く、βグルカンが他のきのこに比べて、多く含まれているきのこで、免疫力をアップする効果が期待できると希望の持てるきのこです。
母は亡くなる間際まで、免疫力の値を下げることがありませんでした。
「神様ありがとうございます。このきのこに出会わせてくださって」
天然のはなびらたけは「松の下」に自生します。
そのこと知り、私たちの使命なのだと思い、栽培を決めました。
そして、父、母をガンで亡くしていることも大きなきっかけです。
一人でも多くの皆様にはなびらたけを知っていただくこと。
私たちの作っているはなびらたけは副作用が一切ない、「未来の抗がん剤になる」という思いで愛と希望を持って育てています。
母にはなびらたけパウダーを届けよう
母は日本一はなびらたけを食べ、日本一はなびらたけパウダー(サプリ)を飲むということをしてくれました。
私が出来る唯一の親孝行は母に安心安全な、はなびらたけを届けることでした。
やれることがあるのはとても幸せなことでした。
信州飯田に住んでいる私と母の距離は車で片道約4時間。
そうそう通うことはできません。
毎日の電話でのやりとりで残された日々。
私は母にどうしたら、何か元気の種をプレゼントできるか考えて、松下家の日々のドタバタな暮らしぶりをおもしろおかしく伝えるのが、いちばん自分らしいと思いました。
母から「淑子の声を聞くと元気になるよ。ありがとうね」
と声をかけてもらった時、私が私らしくあり続けること。
この世に生まれて、何かお役目を授けていただいているものがあるとすれば、もしかして「元気」ということがキーワードではないかと、
「ハッ」とさせられました。
母のガンの進行は早く、末期の肺がんだったのでガンを克服するところまではたどり着きませんでしたが、
はなびらたけのパワーと自然療法のおかげで、全く痛みを感じることなく、最期まで家族に囲まれて自宅で過ごすことができました。
亡くなる数時間前に仕事から帰宅した弟に「あんちゃん、おかえり」と言った言葉が最期となりましたが、眠るように旅立ちました。
いつも私たちの帰りを笑顔で迎えてくれた母らしい旅立ち方でした。
はなびらたけを全国の皆さんに広めていきたいと、心から思った出来事でした。
皆さんの健康習慣の一助になれれば幸いです。
私たち、「きのこや松下」は健康と元気をおわけできる企業になるべく日々笑顔で「顔晴り(がんばり)ます」。
「明るさ・元気」を守っていきたい
最後になりますが、不登校だった娘も成人を迎え、21歳。
長男は春から大学生。
次男は中学入学、三男は小学5年生。
嵐のように過ぎ去った10年間 決して良い母でもありません。
きのこの仕事もピンチ苦労もまだまだ多いです。
でも私が守っていきたいもの、使命は
「明るさ・元気」
先日小学校卒業の息子から卒業式当日に手紙をもらいました。
その一文にいつもペッポコ母さんはうるっときたのと同時に嬉しくって、やっほ〜!!と叫びだしたくなる文章がありました。
抜粋
−お母さんへ−
いつもぼくのことを見守ってくれてありがとう。
いつも明るく家を元気にしてくれてとっても嬉しいです。
最高のプレゼントでした。
愛とユーモアをエッセンスに、元気パワーで私の周りのすべての方々の人生が
キラキラ輝けるものになるお手伝いを精一杯させていただきます。
− 松下 淑子 −
公開日: 最終更新日:2015/06/24