きのこや松下 店主ご挨拶
こんにちは。株式会社きのこや松下の代表の松下進です。
南信州飯田市で“はなびらたけ”を栽培、販売しています。まだまだ、世の中に広まっていないきのこです。が、だんだんと知名度も上がっているところです。
はなびらたけは、自然界では、1000m以上の高地にてカラマツ等の根元に自生し、めったに見つけられないことから幻のきのこともいわれています。独特の香りと食感が特徴で、近年、機能性の高いきのことしても注目されています。
自己紹介
信州飯田市で農家(田畑やえのき栽培)を営む家に生まれました。
子供の頃から責任感が強く、クラスでも学級委員をしたり、スポーツ(卓球)に打ち込むなどしてきました。
しかし、高校生くらいから、「信州から脱したい、父母のもとより離れて生活したい」という都会への憧れもあり、大学生活と同時に信州を離れました。
そして、その大学時代に自分の人生を変えるふたりの大切な人と知り合うことになります。
まず、一人目、Sさん。私より20歳ほど年上の社会人の方でした。
事業を営んでいましたが、物事の見方や考え方、発想の自由さ、転換等様々なことを教えていただきました。今でも交流があります。
Sさんは今高崎市内で麺屋匠というラーメン店を息子さんと共に経営しています。
年に1,2回ですが電話で近況報告をしながら、仕事の相談にものってくれます。
私の人生における師匠ともいえる方です。Sさんよりいただいた言葉で今でも心に留めている言葉があります。
“君の人生、一度きりだよ”という言葉。と“ビジョンなくして成功なし”です。今、事業をしている自分に最も必要な言葉です。
もうひとり、現在の妻である淑子さんです。(このサイトでは、はなびらたけ応援団のよっちゃんとして頑張ってくれています)
淑子さんとはバイトさきで知り合いました。
同い年ではありますが、ものすごく大人びていて発想が豊かであり尚且つユーモアも持ち合わせた人でした。
彼女との付き合いの中でカルチャーショックだったのが、家族のあり方でした。
厳格な家風の家に育った私には彼女の家のアットホームさにびっくりしました。お父さんやお母さんの自分の父母とは違った温かさにも感動しました。
父の入院で、Uターンすることに・・
大学卒業後はそのまま都会の商社に就職しました。
23歳のとき妻と結婚し家庭を持ちました。そのときから妻は私のよき理解者として私を励まし、激励をしてくれていました。
社会人4年目のとき、私の父が体調が悪く入院しました。
検査の結果、筋ジストロフィーという病気であることがわかりました。
すぐ動けなくなるということはありませんでしたが、実家へ、田舎へ帰る決心をしました。妻も本意ではなかったかもしれませんが、私の判断に理解を示してくれました。
サラリーマン生活からえのき作りへ
妻、子供二人と信州飯田に帰り、農業生活がスタートしました。
えのき栽培は昔から見て、手伝いもしていましたが、手伝いと事業をすることはまったく別物でした。
Uターンして2、3年は仕事に慣れなければならないこともあり懸命でした。
しかしえのき作りも世の中の流れの常であるように大量生産方式が主流となり、私たちの様な小規模農家は、大量生産、単価安の波に飲み込まれ年々厳しくなっていきました。
品質、収量を上げる工夫や資材を使ったり、JA以外の出荷で産直所に出したりと手立てを打ってみましたが売り上げが減る一方でした。
家族を養うことすら出来ないのか?と悶々とした日々が続きました。
まだ、父も健在でなんとかしてくれるかもとの期待感もあり、目標を見失って仕事に身が入らず、遊びに興じてしまう毎日でした。
その頃、4人目の子供も授かりこのままでは家族一同暮らしていけなくなるとの不安の日々でした。
個人の農家から、生産工場を持つ生産会社へ
そんな時、同じ市内に我が家の規模の2倍近く生産できるきのこの施設が空いている状態で借りられるかもしれないとの情報がありました。
私はすぐ、これだっ!!と何とか借りられないかとお願いにいきました。
交渉に少し時間がかかりましたが大家さんのご好意で賃貸出来る事になったのです。
この機会に妻に、私の手助けをしてもらえないかとお願いしました。
飯田へ来てからは4人の子供の子育てに奮闘してもらい、慣れない土地でも明るく暮らしてくれました。
一番下の子供がまだ0歳児でしたが、3番目と末っ子を保育園に預けて私たちの挑戦が始まりました。
当時、自分の家以外でしかも他人の施設を借りてまできのこを生産しようとする生産者は他にいませんでした。
自分自身にも新しい挑戦です。おなじ、えのきたけ作りでしたので仕事規模の大きさに慣れれば何とか事業が出来るようになりました。
自分の家の施設が空き状態になり、どのように活用しようかと1年以上考えました。
はなびらたけとの出会いから、「松の木の下に自生する」松下のきのこ
えのきの生産だけではすぐに行き詰るだろうと、他のきのこを作れないか模索していましたところ、近所のきのこ生産者で“はなびらたけ”というきのこを作っている方がいるとの話を聞き見学をさせていただきました。
初めて見るはなびらたけ。
綺麗な白色、珊瑚のような可愛い子実体、栄養価の高いきのこ、といままでのきのことまったく違う感じに興味を持ちました。
話もお聞きしたところ、はなびらたけは、1000m以上の高地で、なんでもカラマツの株元に自生しているとのこと。
うん?カラマツの根元?松の下に自生?ひらめきました。“松下のきのこ”だと。このきのこは自分がやらねばならないと、決心しました。
と同時に『このきのこで日本一を目指そう!』人生で初めて夢を掲げることが出来たのです。
妻にも理解を得て二人で日本一のはなびらたけ生産者を目指すことに決めました。
わくわくする気持ちでいっぱいでした。
えのき作りをしているときには無かったビジョン、“日本一のはなびらたけ生産”を目指すことになったのです。
失敗の連続そして・・・
幻のきのこといわれる“はなびらたけ”に挑戦し始めてすぐ、雑菌との戦いでした。
菌糸成長の遅いはなびらたけは雑菌に侵されるとあっという間に負けてしまいます。
仕込んだロットすべて失敗の時もありました。清潔な環境作りから始まりました。
また、市場の開拓も困難を極めました。
新しいきのこのため、少量のロットからのスタートでした。
ところが、折角取引が始まっても肝心な商品を安定して作り出すことが出来ない状況もありました。人手がなく妻と夜なべをしながら包装作業もしました。
3年目に思い切ってえのきの生産を止め、はなびらたけ生産ひとつに絞り、設備機器を更新し、培養施設を整えてから飛躍的に培養が安定しました。
しかし、収量を上げるという命題はなかなか改善できません。
栄養剤を変えたり、菌床袋を変更したりと試しては変え、現在でも試行錯誤は続いています。
一家の大黒柱を失って・・・
そんな中、はなびらたけを始めて4年目の冬。父が突然行方不明になってしまったのです。
昼間妻から電話があり、父が帰ってこないと。
3日3晩車で行きそうなところを探しました。
地域の消防団、近隣の皆様に捜索してもらいましたが、折りしも雪の降る寒い日になってしまい捜索は難航、見つかりませんでした。
まさか自分の身にこんな事が起こるなんてと心配な日が続きました。
このまま、見つからないのではないかと思っていた3週間目に自宅から1時間程の山中にて遺体で発見されました。
涙に明け暮れましたが、病気に苦しんでいた父のこれが寿命だったのかもしれないと、父を見送る気持ちで自分を納得させました。
一家の大黒柱を失って初めて、父の存在の大きさを知りました。
と同時に本当の世代交代であると気持ちが強くなりました。更に自分がこのきのこで日本一にならなければならないとの決意を固めました。
いま自分に出来ることは、はなびらたけを全国に広め、多くの人に健康と癒し笑顔を提供することなのだと改めて決意しました。
そして、挑戦は続く
はなびらたけ栽培を開始して8年経ちました。
まだまだ、課題も多く苦労の連続で、日々研究を繰り返しています。
しかしながら少しずつ日本中にはなびらたけの良さが広まりつつあり、「はなびらたけ生産者の第一人者」として認めていただけるようになってきました。
はなびらたけを通して様々な人とのつながりも出来たのも財産です。
離れていった人もいますが、出会いもあります。
地域の人に支えてもらってここまで来ました。感謝ばかりです。良くここまでしがみついて続けられたものだと思います。
はなびらたけ栽培をしていた企業の中には、栽培が安定できず経営が苦しくなり撤退していったところもあります。
でも「きのこや松下」は独自の研究で、その安定栽培に成功しています。
仲間や、お客様とのつながり、自分の言葉で発信する重要性を今感じています。
どんなに辛くても“あなたなら大丈夫!”と励ましてくれる明るく元気な妻。
“自分を信じて!信念を貫く”と激励の言葉をかけてくださる師匠のSさん。
一人じゃない。家族のためにも、このはなびらたけを全国に広めたい。そして“健康と癒しと笑顔を”提供する企業でありたいと思います。まだ、挑戦は続いています。
ビジョンなくして成功なし!夢は叶えるもの!
公開日: 最終更新日:2015/10/30